北側の露地に面して、残月の間と四畳半がある。
茶座敷として、本格的な茶事が行えるよう、水屋も併せ整えている。
広間と小間の取り合わせでもあって、互いを補う関係として両座敷を設けた。
新築以来すでに両三度、茶事が開かれたと聞く。
<残月の間>
先代が作った以前の建物にも残月写しが作られ、嵯峨野の看板になっていた。
特定の茶室を写すことで、その弊害を思って躊躇したが、これまでも問題なく使われていたという。このたびもたってと請われ、残月写しを取り入れることとした。
いうまでもなく、これは表千家残月亭の写しである。
秀吉の聚楽第築城にあたり、利休も城下に屋敷を賜った。その屋敷に設けられた「色付九間書院」がその本歌で、上、中、下段からなる複雑な構成を持った書院だった。
利休切腹の後、子息の少庵は会津に流されたが、その後秀吉の勘気が解けて今の千家の地に再興が許された。千家再興にあたり、少庵が思いを託したのが父の作ったこの座敷だった。敷地の制約からか、色付九間書院を縮めた形だが、これが現在に伝わる残月亭である。
<残月床を見る>
2畳の上段床に、掛込み天井を伴った床前2畳、それに8畳の広間が取り付く。
床天井が極端に低く、五平(ごひら)の床柱に丸太や面皮などを縦横に取り入れた構成は、通常の書院とは大きく異なり、実に精巧で躍動的な造形である。
掛込み部分が本歌でいう中段にあたり、そこに大きな突き上げ窓が切られていた。席に入った太閤は床柱に寄りかかり、この突き上げ窓から残りの月を愛でたという。
そこから残月亭と名付けられ、この床柱を太閤柱とも呼んでいる。
そろそろ現場も形になるかと勇んで行ったところ、案の定、大工が床周りを間違えていた。すぐ是正を指示したが、床柱をはじめ、当初の材料をかなり変えざるを得なくなった。詳しく書いたつもりだが、複雑な構成につい図面を読み違えたらしい。
まさにそういう床である。
<四畳半>
四畳半は、小間として使われることを意識して纏めた。
茶室としても機能するよう、逆勝手向切に炉を切っている。平天井に掛込みを取り合わせ、4尺床を設けた。床柱には赤松の皮付きを、框には档丸太を取り合わせている。
この框と残月の床框は、京都京北町に行って調達した。以前にも書いたが、雪降る寒い日に方々を回って選んだものだ。思うような丸太が見つかり、景色を生かした木取りも出来た。
この四畳半と残月の間は、茶の湯ではセットで使われる。一方を本席とすれば他方を寄付にと、互いを補完し合って成り立っている。そのため両座敷とも露地に面し、露地を介してさまざまな使い方に対応できる間取りとした。
もちろん、両座敷とも料亭の宴席として用いられる。
先日初めて客として、この四畳半の座敷に上がった。
暮れなずむ庭の景色が雪見から伺え、軸にあった虫の声が聞こえてくるような風情だった。一方、残月の書院越しには那珂川が間近に接し、障子を開けると座敷が川面を漂うかに感じられる。
四畳半の襖の引手は、有田焼14代今泉今右衛門先生が焼いてくれた。
(前田)