三沢の数寄屋<竣工13 ー数寄屋に思うー>

茶の湯はもとより、数寄屋には粋の要素もあると思っている。粋について語れるほどの持ち合わせはないが、なまめかしさや艶っぽさと聞けば、ある種の憧憬を感じてしまう。粋は日本人独特の概念といわれているが、とても崇高で、たどり着くことに挑ませる魅力がある。また、粋とあそびは表裏一体で、行動的でかつ創造的でもある。どこか超然として生きる自由さがあって、魅惑を蔵しつつも、未練のない恬淡無碍(てんたんむげ)の世界がある。

<建物全貌の夕景>

茶の湯はともすれば求道的側面をもつが、それに陶酔していては数寄屋にはならない。軽妙に姿勢を崩し、うすものを纏って、あっさりと瀟洒な心を湛える。純化された心は、世俗を超越して垢抜け、静かな誇りを宿して端然と佇む。もし、それを粋というならば、それこそ数寄屋が求める姿と重なるのではなかろうか。日本の美意識とは、こうした自己のうちに沈殿する澱(おり)みたいなものかも知れない。

<中庭の水鏡から見る夕景>

また、数寄屋は非日常空間だといわれる。日常空間が生活の場とすれば、その通りかもしれない。生活の場は個人の生活経験が大きく作用し、記憶や経験の蓄積ともいえる。ならば、人それぞれに異なる暮らしがあるかと問えば、その多くは利便性に支配され、多様性を帯びているようで、実は単純化されているようにみえる。意味をもとめて、無意味をおとしめてきたことで、結果として私たちの日常は画一化されてしまった。

<水鏡越しに見る和室棟の夕景>

私たちの暮らしには、一見無意味な、遊びや祝祭、夢などの非日常性を含んでいて、さらに、こころや精神、文化は生活の質に大きな影響を与えている。数寄屋には、不確かで感覚的要素も大きいが、日本人の精神性に拠ることで社会に束縛されない自由と、歴史が紡いできた理性がある。さらに日本の美意識には思考の遊びも付随し、そこから生れる想像力は既成のルールを超越し、大げさにいえば、革新をもたらす可能性すら秘めている。

<全体を俯瞰する>

数寄屋には、そのように想像力と理性がある。画一化した暮らしで人びとが硬直し、その感性や意識の融通性を失いかねない中にあって、数寄屋が内包するそれらは、日常の表層を打ち破り、人の潜在意識に働きかけ、人びとの深層に共鳴を引き起こしてくれるのではなかろうか。現代において、数寄屋を作る意義があるとすれば、そこにあると思っている。

<完>

(前田)

追、HPのworksに追加しましたので、併せてご覧ください。

前田伸治 暮らし十職 一級建築士事務所 (kurashijisshoku.jp)