料亭の建築 10 建物と外観

建物の説明をしよう。
南北に長い敷地で、東側に道路が取り付き、西に那珂川が面している。
客が通る座敷は全て1階に配し、各室から川の眺望が得られるよう、またそれぞれの部屋が庭に面するよう敷地全体を使って纏めた。

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                <道路から外観を望む>
主たる広間が2座敷、それに加えて茶の湯を基調とした広間と小間、100人超を収容できる大広間に土間の椅子席を設けている。
建物全体で280坪、大小さまざまな座敷を真行草で纏めた。
次代の料亭をどう捉えるか、これは施主ともに設計の課題であった。
今から30年先を思えば、当代20歳の若者に投げかけ育てねばと、若女将は10年来、日本の文化講座を開いている。茶華道をはじめ能や謡い、座敷遊び指南などと多岐にわたり、料亭でなければできないことを素人の目線で提案してきた。
現在でもそれは続き、次第に輪は広がって嵯峨野のライフワークとなっている。
日本を知ることは、身近な環境を感じ自ら咀嚼する力を養うことでもあって、彼女がよくいう、その場に流れる空気や音を大切にしたいとの思いは、積極的にそれら五感を鋭敏にすることをも意味するのだろう。
現代のいい日本を体現する、今日これが嵯峨野の主題ともいえる。
料亭を成り立たせるには、高度な密室性も要求される。
当初、便所を階に纏めてとった私の試案を見て、「これでは料亭になりません」といった女将の言葉が今も耳に残る。それほど客のプライバシーが要求される場所であり、顔が指さない指させないといったところが、料亭の不文律なのだろう。
上座下座に始まり、主座敷と芸妓の踊る次の間との関係、給仕の動線、召し物の収納、仲居の控え場所など、ひと座敷の中にも要求される要素は多い。
それらは全てもてなしに直結しており、とても格好だけで座敷は成立しない。
それら料亭の根幹と、文化発信基地としての側面をどう合致させるか。
単純に考えれば相容れないこともあるが、プライバシーを担保しつつ、文化発信を主体とした全館一体の使い方も可能なプランに落ち着いた。

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                  <嵯峨野入口周り>
また、世に料亭趣味との言葉がある。
非日常空間だからと、快楽のままに華やいだ造形を指すのだろう。悪趣味の最たるものといった印象だが、今や数寄屋も同じである。
自由にやればいいのだといった過大な解釈だけが先行し、内面の理解もないまま、生な造形が氾濫している。これであってはならない。
根が日本にないのだから仕方ないといえばそれまでだが、これは建築以外にもいえることで、日本の規矩を探求しようとする目は、今やどの分野でも希少なのかも知れない。
設計過程での女将若女将との打ち合わせでは、いつもそのあたりの確認でおわったように思う。日本といってもそれを言葉で表すのは難しい。その微妙なニュアンスを、探るように手繰るようにと、互いに紙を重ねてきた。

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                <道路南より外観を望む>
日本がもつ繊細で優美な美しさを基調に、全体を纏めている。
外観は穏やかに、また力強くと私が託す料亭像を形にした。
建物全体のボリュームが大きくなるため、高塀で囲んで全体を落ち着かせ、また料亭としての格調も与えられればと思った。
その塀を穿ってみせの入口とし、銅板葺きの庇を深く差し出している。
瓦葺きの主屋根には穏やかな起りをもたせ、窓には格子を巡らせ全体を整えた。塀の本瓦には嵯峨野の文字を刻み、嵯峨野の印が竹葉なことから、道沿いから見える植樹には竹を配している。
道行く人が、通りすがりに建物を仰ぎ見ていくという。
先日、料理長と酌み交わしたおり教えてくれた。
特に夜の雰囲気は得も言われぬと、杯のやりとりに一層拍車が掛かった。
看板は栃の縮杢板に、博多人形師中村信喬先生が屋号を彫り刻んでくれた。
  (前田)