料亭の建築 9 陣立と木材

工事は株式会社淺沼組九州支店に決まった。
大手を交えた入札も半数が辞退、福岡といえども大工、材料揃えは難しいと実感した。現場説明会で最も好印象だったのが淺沼組営業山崎輝夫で、これは施主も同意見だった。
決まる背景に人あり、田島支店長の英断に謝意を表したい。

画像

             <嵯峨野で使われた赤松たち>
見積りにあたっては、私らのHPに載る施工者にも声を掛けたらしい。
そのひとつが青森の大山建工で、後から聞くと淺沼組とは因縁浅からぬという。建築部長の大山聡が浅沼出身で、大山重則社長の子息は淺沼東京本店詰め、かねてより仕事でも取引があると聞いた。
探してもらったものの、九州でも木材は揃いづらく、目が詰む杉や松も入手困難、数寄屋を知った大工を集めるのも難しいという。それらの状況から、木材全般と一部大工の応援に、遠方ながら大山建工が抜擢された。
現場の指揮は、淺沼ベテランの岩切武安所長が就き、地元大工、建具の取り纏めには所長の声掛りで平松装備が脇を固め、工事着手となった。
まずは、木材集めに掛からねばならない。
予算のこともあったが、銘木に頼らない数寄屋をと思った。
我国の建築でありながら、今や数寄屋を建てるには莫大な金額がかかる。その一端が美材に依存する銘木崇拝の風潮で、まるで数寄屋は宝石箱になった。
赤身材の美しさや板材の杢目、丸太の肌合いなど、日本人ならではの自然を愛でる気持ちはとにかく、美しい材がすべてという思想は数寄屋ではない。それは自然が生んだ偶然を寄せ集める蒐集家の技で、人の目で価値を生み出す行為とはほど遠い。

画像

  <材料検査 荒取りされた10mの長押材 左が岩切所長、右が大山社長>
金額が決まった翌日から、大山さんは山に木を見に入ったという。
原木購入しか予算を打開する方途がなかったともいえるが、全体の色味を揃え、統一した感じに仕上げるためにも必要なことであった。
青森三八地域は森林資源に恵まれ、良質な杉、赤松、栗、ケヤキなど、建築材に用いる樹種が豊富にある。使う木材も総数200立米に達するため、相当量を確保しなくてはならない。樹齢120~150年、200年あたりの杉、赤松を中心に選んでもらった。
めぼしいものを見つけては交渉を重ね、纏まったところで工場に入れて、荒取り、乾燥、木取りと進めるが、節が多く割れが入ったりと、思ったように捗らない。
着工から2ヶ月たった11月の下旬、材料検査に一同八戸へ向かった。
初冬の雪降る寒い日だったが、大広間に取り付く10mの長押が取れたと実物を見て、揃って快哉を叫んだ。しかし後日、乾燥の際に割れが縦横に入り、すべて使いものにならなかったという。
あれほどの良材ながら、生木の乾燥に焦ると、ストレスから割れが生じてしまう。原木で材料を揃える難しさが身に滲みた出来事だった。
初回の材料搬入が3週間遅れの2月10日、結局すべての木取りに半年近くが掛かった。

画像

          <木を曳く 節のない見事な杢目が現れた>
一本の木をどう木取るかで、木の表情はまるで変わってしまう。
ただ寸法に切断すれば材料になるなんてとんでもない。
いかに節を隠し、杢目の美しさを引き出すか。見えぬものを見据えて墨を打つ、その人の目が木を生かすのである。まさに長年の経験と勘が木の運命を決する。
人の寿命より、遙かに永く育った樹を伐って使うのである。その根底に、よほど木への深い愛情がなければ、木も応えてはくれまい。
木取られた材には、赤白もあれば杢目の乱れもある。それらを図面を睨みながら適材適所に配り、番付け振って材料に仕立てていく。
その見極める目と、生かし切ってやろうとする心情が材料を生み出すのであって、数寄屋の真骨頂はそこにある。

画像

         <木取るため、工場に張られた図面と木出し表>
  (前田)