料亭の建築 8 プロローグ

福岡の料亭が、今月初め竣工を迎えた。
設計から関わること3年あまり、この間、紆余曲折もあったが、多くの協力を得て思うような形で引き渡しができた。
これまで途中経過を綴ってきたが、完成した姿とともに改めて詳述したい。

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            <新たになった嵯峨野入口周りを見る>
名を、料亭嵯峨野という。
博多駅からそう遠くない住吉橋のたもと、那珂川に面してその建物は建つ。鬱蒼とした森に包まれた住吉神社にほど近く、中州がすぐそこという位置にある。
かつてはこの川に面して料亭や待合が軒を連ね、博多花柳界を彩ったという。
昭和42年、先代ご主人が包丁一本、カウンターの店を起こしたことに始まる。
とにかく仕事一筋の人だったようで、嵯峨野30周年に編まれた本を見ると、凄みある生きざまが伝わってくる。それは料理修行の枠を越え、日本文化そのものとして料理をとらえ、その奥にある日本をも我がものにと挑み掛かる、力強い意志とみなぎる闘志に貫かれている。
季節を捉える心、もてなしの真髄を茶の湯に見いだし、稽古に打ち込む一方、その心持ちを瞬時に料理に取り込み表現していく。小唄、清元も玄人はだし、粋な一面は料理に彩りを与え、その才能は多くの人を魅了したに違いない。何事をも吸収しようとする集中力は、群を抜いたものだったろう。
30周年を迎える直前に他界されたが、その意志を先代の奥さまである女将が守り伝え、ご息女の若女将が受け継いで現在に至っている。
若女将の面魂には、先代が乗り移ったかと思わせる瞬間が、幾度か見られた。
このご両人とともに築いたのが、このたびの建築である。

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             <嵯峨野30周年記念「味匠」より>
私が初めて伺ったのは、先代の残した建物だった。
カウンターから始めた店も次第に間口を広げ、趣向を凝らした座敷が幾つも連なり、大広間も持った立派な建物になっていた。露地を伴った茶室も設けられ、至るところ心血を注いだ跡が伺われる。
果たして工事中、つきっきりで先代が大工を督励したらしい。微に入り細に入り、厳しいまなざしが感じられる。大工もさぞ、やりにくかったことだろう。印象深いのはその中庭で、竹を植えた脚元に水鉢を据え、まさに壺中の天を作っていた。
座敷に通され、若女将からこのたびの話を聞き、昼食をご馳走になった。
前夜、彼女の夢に住吉さんが現れたと、一瞬息をのむ場面もあった。
話もようやくと少し中座されたとき、接待してくれたまだ若い仲居が、
「わたし、この建物が好きなんです。何とか残せないものでしょうか」
と、切々訴えてきた。
こうした仲居を育てている嵯峨野とは、いったいどういうところなのだろう。
驚きとともに、若い彼女の言葉に老舗の香りを感じ、とても気分を良くした。

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                <以前の建物の中庭>
実は構造体に難があって、建物を残せないことを若女将から聞いていたのだが、こうした愛着を主従が共有できる嵯峨野に大きな魅力を感じた。
日本のいいものを残し伝えたい、初対面で若女将が語ったそのままが、嵯峨野に息づいていた。
今にしてみれば、これもきっと先代の込めた魂魄が、若い彼女をして私に言わしめたのかと、半ば伺い顔に思っている。
  (前田)