「やりましょう。こうして無事だったのだから、より良いものを作りましょう」
被災後はじめて伺った石巻で、森先生が言った。
自らが被災しているにも拘わらず、見舞うこちらが励まされた気がした。
隣接する先生の病院も浸水被害が大きく、機器類はすべて破損。その中でも早々に病院を開け、被災された方に薬を処方し、声を掛け肩を叩いて廻っていた。
<幸い骨組みだった増築部分>
建築の加藤工匠佐藤一翁、庭の福清緑化、加藤孝志とともに石巻へ向かった。
途中、高速道路から見る景色は一変し、被害のすさまじさに驚く。市内に入るも至るところで、惨状の大きさが伝わってくる。動かない車、陸に上がった舟、全身泥だらけになりながら必死に片づける人たち。
言葉が見つからない。
森別邸も床上浸水を被ったが、不幸中の幸いか、ダメージを受ける被害はなかった。茶室は床下が壁留めで抜けているため、水が引くと同時に建物から水が抜ける。被害らしい被害はかった。日本建築の知恵なのだろう。
雨戸の痕跡から、広間は床上20㎝辺りに水が来たようだが、内部は隙間からの静かな浸透だったのか、床上わずかに浸る程度で、畳の藁床が水を全て吸収したため壁に被害はない。床板を上げてみたが、内部の土間は乾いていた。
庭は、高台になった滝口周りは被害がなかったものの、池を中心にして、一面海水に混じった漂着物が覆っていた。一部の樹には塩害も見られたが、これからの洗浄でどこまで復活するか、という見立てだった。
実は震災の日、数日前まで石巻へ来るつもりをしていた。
加藤孝志の要請もあって、樹木の堀取りが完了した分から植え出したい、と連絡を貰っていた。ところが確認申請で府中市から苦情が入り、やむなく東京に行ったため被災を免れた。
すでに3週間が過ぎたこともあって、さっそく堀取りした樹を見に行ったが、かなり弱っていた。枯れる恐れも感じたため、急遽泊まり込んで植えることにした。このようなときにと思われるかも知れないが、十数年たった樹を無惨に枯らすは、このときだからこそ慎まねばと、みなを督励した。
<増築建物から池を見る>
先回紹介したウイリアムを含め、震災当日現場に取り残された大工4人は、隣のマンション屋上に逃げ、その後、自衛隊に救出され、ヒッチハイクで山形まで帰ったという。一緒にいた板金屋は近所の人に自転車を借り、山形尾花沢まで一昼夜、寝ずに漕いで帰ったと聞いた。
ともすれば忘れがちな、生きる逞しさを見た。
病院の本格再開を来週に控え、再開工事を含め、加藤工匠も現場に入った。
樹木の洗浄と被害の把握、新たな部分も進めるよう、加藤孝志に指示をした。
森先生のひと言に、皆も気持ちを奮い立たせていた。
ものづくりの根本に立ち戻ってと、私も気持ちを新たにさせられた。
(前田)