平行定規

30年来使っている平行定規がある。
仕事には欠かせないものだが、先日からワイヤーが切れかかっていた。
長年使い込んで、持ち手もすっかり剥げたが、馴染みはよい。
ひと段落したら直そうと製造元に連絡すると、すでに生産中止に・・・。

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                  <製図板と平行定規>
使っているのは、光栄堂の「エグザクター」で、ご同業ならばご存じだろう。
単純な構造で、好みの製図板に、金具とワイヤーを張れば使える。仕掛けが、見る目にダイレクトに伝わるのが良い。
図面を見ながら書き進めるため、何枚も並べられる大きな図板に、この平行定規を取り付けている。建築家の清家清が、製図板の表をリノリウムにすると鉛筆のノリが良いと書いていて、それに倣って30年前に作った図板である。
伊勢も関東事務所も同じ寸法で作って、日々使っている。
この鉛筆のノリ、という言葉も、もう死語になった。
設計を志した時分は、「生きた線を引け」と、よくいわれた。
鉛筆の線は、迷いがあるとボケるし、線が揺れる。鉛筆の柔らかさがそうさせるのだが、不思議と書く人の気持ちが表れてしまう。芯の状態や力加減といえばそれまでだが、スキっとした線は、これぞと思って引かないと引けないし、その意志の強さは、見る人に伝わる。
いまは白焼き(コピー)が多くなったが、以前は青焼きが主流だった。
青焼きの図面も、めっきり見かけなくなったが、青焼きだと、消しゴムを使った箇所が何となく分かる。逆にいうと、書き手の悩んだ箇所が見る人に伝わる、というところがあった。
だから、この消しゴムを使うことが、若い頃はたまらなく嫌だった。
破いて新たな紙に書く人もいたが、勤めてた事務所はそれを許さなかった。とかく若い頃は、綺麗に書く、ということに神経が集中し、伝達手段という本来の使命を、疎かに考えがちな危うさがあった。
また図面は、およそトレーシングペーパーという薄い紙に書くのだが、力任せに引こうものなら芯先で破いてしまう。書くのに時間を掛ければ、定規に線が擦れて紙は真っ黒になる。天候によって紙の状態も左右され、書く芯先でその日の湿気もわかる。雨天のノリの悪さは、図面書きなら誰しも経験したことだろう。
さらに、書き入れる文字や紙面のレイアウトも、人に伝えるという観点からは大切なもので、書き手の人柄や信条が、素直に表われてしまう。
誠に厄介だが、これが図面を引くということである。
幸い私の仕事は、まだ手仕事の分野に守られている。
大工や左官、屋根や建具と、手を以て作る人たちとともに生かされている。
手で引く図面は、私が彼らと会話をする手段なのだ。
ある人に、CADも手書きも内容が同じなら、伝わるものに違いがあるのかと食ってかかられたことがあるが、それはどうだろう。
確かにCADも道具に違いないが、機械の線は結果でしかない。
線を引く中での悩みや感情、時には迷いも含めて、書く線には正直に現れる。
まさに図面は、生ものといっていい。見功者なら、図面を見れば一目瞭然、こちらの力量も腹の中も、瞬時に見透かされてしまう。
それらを引っくるめて作り手に読ませ、書き手の心持ちを推し量らせるのが図面だと思う。
それは建築をどう捉え、どう作るかといった強い意志も含んでいて、思考に始まって作る過程すべてをぶつけることで、始めて職人を動かすことができる。
自らを投げ出さなくて、誰と、何の話が出来ようか。
この平行定規も図板も、建築を作る私の手足である。
幸い、ワイヤーの換えがあった。
残り5本と聞き、救われたように2本を頼んだ。
去る道具の寂しさに、仕事を振り返えって慰めてみた。
  (前田)