めっきり箪笥を見かけなくなった。
若い人では、箪笥を持っている人の方が稀であろう。
狭い住宅事情はもとより、仮住まいを転々とせざるを得ない状況では、これも致し方ない。昨今の、ウオークインクロゼットならぬ収納空間の偏重は、それを裏付けているのかも知れない。
<箪 笥>
私らも結婚当時、賃貸アパートから始めたくちなので箪笥と呼ぶものを持たない。
それでも新婚の友人家庭に招かれれば、当時必ずといっていいほど、箪笥が大きく設えられていた。妹の嫁ぎ先では、親類縁者が箪笥を開けてこれを眺め、あげく箪笥を誉めて初めて、嫁を認める風潮があると聞き、驚いた記憶がある。
そこでの箪笥は、家庭の象徴でもあった。
思えば実家にも箪笥はあったが、年代が立ってか、表面がぺらぺらめくれて困った。なんだ張り物かと、子供ながらもみすぼらしく感じたが、友人宅でも同じ経験をしたから、そのあたりの薄っぺらさが、高度成長期の日本だったのだろう。
元来、日本の住まいでは、座敷に何も置かない、というのを原則としていた。
その都度必要なものは、押入から、蔵から出してきては、室礼を施した。
卓袱台を置けば食卓に、座布団と座卓を出せば客間に、布団を敷けば寝室にと、千変万化そのとき次第に道具を出しては、空間に性格を与えてきた。
それらは家具というより、やはり道具なのだろう。
すべからく持ち運び容易く、折り畳めたりと、コンパクトに収納できる。狭い日本家屋では必要不可欠な要素だったに違いない。
<だいどころの水屋箪笥>
その中にあって、だいどころの水屋箪笥をはじめ、暮らしを支えてきた箪笥がある。収納の張箪笥や衣装箪笥、長持ちなどもその部類だろうし、箱階段など建築に組み入れられた箪笥もある。
それぞれにきちんと作られ、長い年月に耐えるよう工夫されてきた。
その確かな作りや機能性、年代物ともなれば、染みついた重厚感や意匠性も加わり、今も大いに魅力を感じさせてくれる。
果たして現代に、こうした箪笥に取って代わるものはあるのだろうか。
先日、農家を改装した。
迎賓施設としての再生なのだが、箪笥がひとつのキーワードになった。
限られた広さをより豊かに、機能性をもって構築することを考えたとき、はたと箪笥にたどり着いた。
<箪笥に囲まれた囲炉裏の間>
箪笥には収納の美学、という側面があるのかも知れない。
その場に必要なものに囲まれている、という安心感も手伝ってか、人の営みを感じさせてくれる。空間が他人行儀でなくなるのがいい。
さらに、機能性や意匠性を追求すればするほど、使う人の人柄が浮かび上がる。
道具や家具のもつ、ひとつの宿命だろう。
一方で、こうした人間性の滲むところが、現代の空間に受け入れられないのかとも、思えてならない。
(前田)