石巻は、庭師 加藤孝志の仕事でもある。
情熱を傾けた2年半が、まもなく完成を迎える。
そこには一世一代の仕事といって憚らない、彼の誇りが詰まる。
歳若くして挑んだ、初めての大庭園である。
<石の据え付けを見る加藤さん(左)>
庭師は、自然相手の仕事である。
図面など参考程度のもので、大きな空間に小さなひとつの自然を結集して拵えていく。庭を構成する石や植裁も、その意味では同じものがない自然の産物で、その表情や形、備わった性格や性質を見極めて互いを組んでいく。
そのひとつひとつは紛れもない自然だが、庭を造る行為は人工そのもので、それでいながらより自然らしく作るのが日本の庭づくりである。背景には知識と経験も必要だが、何より自然とひとつになれる心持ちがなければ務まらない。
石を据えるひとつをとっても、現れる石の表情を見極め、より石が生きるように埋める深さを推し量る。
石は地上に出る部分より、実は土中に埋め込む深さが大きい。
敢えて隠すことで、石のもつ重量感がその姿から伺えるからだ。
石だけに限らないが、こういった感性はおそらく日本独特のもので、自然を見つめる深い洞察力が庭づくりの根底にある。
その呼吸を彼は体得していた。
「私の修行時分は、親方や職人から殴り蹴られて覚えたもんです」
父の跡を追うように、若くして修業に飛び込んだ。
身体で覚えたからだろう、知識よりも呼吸に重きをおく彼の姿勢は一貫していた。
そんな加藤さんを慕ってか、彼の元には息のあった2人の若者がいる。
互いの仕事を心得て、交わす片言で仕事の段取りを確かめ、競うように息を合わせて仕上げていく。まさに少数精鋭だが、加藤さんの背中を必死に追う姿は美しい。
初めて棟梁に連れられ現場を訪れたとき、加藤さんも同席していた。
到着を待っていてくれたのだろう。挨拶もそこそこに、現場を見て思ったことを言えと迫ってきた。初対面で、これだけ相手の懐に、深く飛び込んでくる人を知らない。
「この滝はあまりに奥行き感がないな」
だらだらと滝に繋がる水の流れに、思うままが口を突いて出た。すぐさま、
「どうしたらいいでしょう、教えていただけませんか」
頭を下げ、差し出す紙にその場で鉛筆を走らせながら、流れを屈折させ、返す水のしぶきで流れを演出して滝に落としたらどうか。そんなことを伝えた。
少ない空間の中で如何に奥行き感を現し、流れの勢いを眺める視点から感じさせられるか、それを常に考えて石を組んで欲しいと、偉そうなことをいった。
森先生も、じっとその光景に耳を澄ませていた。
<雪の中での露地の植裁>
全体構想を如何に立て直すかに腐心してた頃だが、彼は指摘された滝の改修に執念を注いでいた。ひと月も過ぎた頃だろうか、改めて訪れると、見事その滝は姿を一新させていた。
自分でも、その呼吸が会得できたのだろう。
会うさま破顔一笑で爾来、彼と仕事をともに、ここまで来た。
とかく職人は、人の意見に耳を貸さない印象を持つ人も多かろう。
しかし、ほんものの仕事師は、決してそのようなことはない。自分を表に出さず、仕事本来の姿を希求し、その仕事に挑む中にいわずと真摯な人間性を培っていく。仕事師とはそういう人たちのことである。
弟子らを前に、人に頭を下げて意見を求め、それに応えて作ってみせる。
素晴らしい人間性と、ほとばしる創意をそこに見はしないだろうか。
出会いひと月の間にそれをやってのける彼の熱意の深さに、一気に頼もしさを覚えた。
以来、思う構想を彼にぶつけ、返る言葉に賛否を探りつつ、形に整えてきた。
最後まで、敷込む砂利と土の高さに神経をとがらせ、苔地の柔らかな曲線の具合など、熱心に確認を求めてきた。大きい庭といえども、全てはディテールが根本にあって、石の向き、樹木の枝振りが、どれだけ空間を変貌させるかを彼は知っている。神経をみなぎらせた、生きざまそのものの仕事で応えてくれた。
庭師、加藤孝志の仕事がここにある。
(前田)