連休は、いつものことだが仕事をしている。
普段の溜まりにたまった仕事を一気にこなして、世間に追いつこうとする。
世の中が休みだと、電話も掛かってこない、現場に一憂することもない。
仕事をするには、この上なく好都合である。
この連休中も事務所に籠もって、ひとり図面を書いていた。
若い宮本君は上京してきた彼女の案内に、かりのは家族サービスに。
静かな仕事場で、昼夜の境なく机に向かう。
日常の仕事は、いつも同時進行で何件かが動くため、じっくり机に向かうことが難しい。移動中やホテルで考えをまとめることが多くなったが、図面を書くには、この集中力が欠かせない。
26日からの10日あまり、たっぷり図面を書いた。
これまで頭で考えてきたことを、一気に白紙に叩きつける。全体のプロポーションから微細な寸法との格闘など、時には全体を、ある部分は細部からと、さまざまな角度からひとつの建築に収斂していく。
それはけして頭だけの作業ではない。
手の汗を拭きつつ鉛筆に、消しゴムにと、中腰になって製図板を抱えるように顔を近づけ、目を吊り上げながら図面に挑む。引いた線が気に入らないと悩み、書いては消してを繰り返し考えを刻み込んでいく作業は、全身を使った肉体労働でもある。
しかし、これも今となっては時代遅れなのだろう。何がCADだといっていた人も、こぞってコンピュータに向かうようになった。記憶力と汎用性が、設計に向かう姿勢を変えたようだ。
また基本設計で詰め切れないものを、実施設計で見事納めようとは了見が甘い。
付け焼き刃な部分訂正は、必ずそのしわ寄せを生む。全体が混沌としているときに、引くべき線を見つけて引いてこそ建築は纏まる。
その意味でも、一本の線が年々重くなるのを感じる。これでいいのかと、線引く手を逡巡しながら自分の思いを絞り込む。雑巾を絞るように、幾多の考えから答えを絞り出していく。何をいいと思っているのか、何を求めているのか。脂汗を垂らしながら呻吟する。
この鉛筆を置く瞬間に建物の運命が決する、まさにそれが実施設計である。
書いた図面は、今度東京で建てる住宅である。
若夫婦とご両親の二世帯の住まい、基本設計を一年掛けて纏めた。
工事が始まれば、改めて紹介したいと思う。施主も快く了解いただいた。
時代遅れとも、一本の線にこの仕事の誇りを掛けたい。
(前田)