西村棟梁を悼んで

五十鈴茶屋の中心的な棟梁を努めた、西村棟梁が先日亡くなられた。
享年55歳、胃ガンのためという。
余りに突然のことで、聞いた途端、言葉を失った。
数々の想いが駆けめぐる、涙滂沱。あまりにも早すぎる。

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                 (中央が西村棟梁)
初めてお会いしたのが、とうふやの現場だった。
当時は茶木さんが棟梁を努め、その脇棟梁として、西村さんが現場を纏めていた。背丈は高いが、身体は細かった。小さな納まりにも神経を尖らせ、丁寧に鑿(のみ)を振るう後ろ姿が、今も浮かんでくる。
棟梁として、私の仕事をしてくれたのは、二軒茶屋からだった。
細長い平面にも関わらず、小屋組がブロックごとに異なり、全てを納めるのに、かなり難儀を極めた建物だった。
地元のテレビ局も取材に訪れる中、凛々しい姿で大工たちに、建て方の指示をしていた。
建て方も終盤になった頃、肝心の破風の形で私と齟齬があった。
図面を読み過ぎ、想いが先走ったのだろう、しかしすぐに直してくれた。
それからというもの、特に、慎重に慎重を重ねて、仕事に臨んでくれた。
破風のような姿形のもの、重なる屋根の複雑な納めなどは、現場の土間に原寸を引いて確かめ、細かな面の処理や形状、木の杢目と柾目の使い分けなどは、私の顔を現場で探すように尋ねてくれた。
そんな棟梁を、尊敬を込めて「西村さん」、と呼んでいた。
その視線は、いつも真剣さを湛えていた。
いや、私が偉そうなことなど言えようもない。
西村棟梁からの手ほどきは、数知れない。

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               (帽子がトレードマークだった)
仕事以外のことで話し込んだことはないが、図面を挟んで交わした会話は人後に落ちない。私の細かい癖や、好んで用いる納めなど、まるで私を丸ごと呑み込むように、図面を読んでくれた。
口にしない言葉を、聞き漏らすまいとしてくれたのだろう。
自分の主張を胸に、私が訪れると決まってその読解力を試すように、小さな応酬があった。いま思っても、楽しい会話だった。その都度、鉛筆で細かく図面に書き込んでいた。
書き込みで埋め尽くされた図面を小脇に抱え、現場の雑踏の中、私めがけて歩いてくる姿が忘れられない。
想えば昨年末に会った折り、些か元気がないようだった。
「西村さん、また仕事しよう」
と肩を叩いて声を掛けたのが、最後となった。
再び、ともにする仕事をもてない哀しみは、例えようがない。
「先生、ここの納め、どうしときます」
今も、その声が聞こえる。
伊勢には彼の仕事が残る。西村棟梁の確かな手が刻まれている。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
  (前田)