四季の室礼<秋>

私たち日本人は、四季の移り変わりの中で暮らしを営んできました。
その四季を真っ向から受け入れることで、楽しみを見出してきたのでしょう。
先回の前田さんの話の中に、「積極的な暮らし方が室礼になる」というようなことがありましたが、時々の年中行事とともに、私たちは自発的に季節を採り入れてきたのだと思います。
それでは秋の室礼から、話の続きです。
~ 四季の室礼 <秋> ~
季節の室礼と一概にいいましても、色々と解釈もあろうかと思いますが、今回は結して難しい飾りを取り上げるつもりはなく、暮らしの中の気軽な室礼という範囲で写真を集めてきました。
そのような意図をお含みいただいた上で、肩の力を抜いて軽くご覧下さい。

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秋といえば中秋の名月ですね。
ススキを飾りお団子をお供えする。皆さんもこの写真を見れば、「お月見」だなとお分かりだと思います。でも実際、こうして月見をするご家庭が多いとは思えません。私のところなども、こうして月見をしたことはありませんし、友人の家でもこうして月を愛でる習慣がある家はなかったようです。皆さんのところは如何ですか。
でも、こうした余裕を持った暮らしをしたいのは確かですね。

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これは重陽の節句です。9月9日の節句ですね。
菊の節句とも呼ばれ、こうして菊を飾ったりしますが、菊の花の下に降りる露には「不老長寿」の効き目があるとされています。
その露を取るために、前の晩から菊の花の上に綿を被せておき、翌朝露に湿った綿で身体を拭うという習慣もあるようです。実は京都にいるときに一度だけ体験したことがありますが、効いているのかいないのか、残念ながら生きているので分かりません(笑)。

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ちょっと話がそれるかも知れません。
これは庭ですが、皆さんは見慣れているので何とも思わないでしょうが、日本の庭はこのように自然を模して作られてきました。これが西洋へ行くと下の写真のように幾何学的になって、四角に刈り込んでみたり、三角の尖った円錐形に木の形を作ったりと、およそ私たちの眼にはおかしなものに映ります。
私たちはこのように、自然の姿を凝縮して、より自然らしく我が家の庭にそれを映したのです。小さな空間の中にも「自然に親しみたい」、という切なる欲求が大きかったのでしょう。
それだけに庭を作るのには難しさが伴うのですが、四季のある中で育った、我が国特有の感性が生みだしたひとつの姿なんでしょうね。

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ある料亭の秋の献立ですが、この盆の中にも秋が表現されていますね。
二十日月の紙敷に、ススキの箸置き。
盆を夜空に見立てた秋の風景です。日本料理は”見て楽しむ”と良くいわれますが、まさにその表現がピッタリ来ますね。
右は秋の床の間の室礼。
軸に薄墨の月を、ススキをその月に被るように活けてあります。
直の風景に接するだけではなく、こうして部屋の中にいてもそれを連想させる室礼によって、季節をより身近に感じようとしたのです。またその中には「見立て」るという積極的な行為も行われ、季節を知的に捉えることによって、見る人なりの想像領域を拡大させる効果もあったんだろうと思います。

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床に掛けられた掛け軸ですが、床に掛かる軸など当たり前になりすぎて、その文字も吟味しない方が多くおりますが、これは勿体ないことなんです。
このような軸を”一行物”といいますが、良く禅語などが書かれています。
季節に掛けた言葉の中に、奥に潜む普遍的なものを示す、含蓄ある世界がここにはあります。またそれを「誰が書いたのか」というのも重要で、その人物をこの文字に見て、あたかもこの座に同席しているようにそれを賞翫する。
単なる美術観賞のレベルを超えた、知的創造行為を伴った独特の観賞形態だと思います。
この軸は、「秋月照相心(しゅうげつそうしんをてらす)」と読みます。
秋の月は互いの心を照らし合う、そんな意味だと思いますが、この座に座った人同士の心を繋ぎ止めるいい言葉ですよね。その季節とともに、私たち人間にとっての大事なところも同時に示しているのでしょう。
 (つづく)
如何でしょうか。
我が家でもこうした室礼をする余裕は、はっきりいってありません(苦笑)。
こうした余裕を持ちながら暮らしを楽しみたいですね。日常的にそんなに手間を掛けることは出来ませんが、その積極的な行動が自分に余裕を生むのかも知れないなあと、話を聞いていて思いました。
次回はー四季の室礼<冬>ーをお届けします。引き続きご覧下さい。
  (かりの)