五十鈴塾講義「日本家屋の暮らしと知恵」  その1

3月17日、五十鈴塾において「日本家屋の暮らしと知恵」という題で、前田さんが講義をされました。
当日はたくさんの方がお集まりくださり、好評のうちに講義を終えました。
最近忙しく、ブログを更新することができない前田さんに代わり、この講義の内容を数回に分けご紹介させていただきます。
「日本家屋の暮らしと知恵」 ~ かわりばえのしないライフスタイル ~
今日ここへ来られるのに皆さんの中にはお車に乗って来られた方も多いと思います。ご承知のように車は排気ガスを放出しながら走っています。そのため車内はクリーンで快適でありますが、その代償として大気汚染が深刻になっているのも事実です。
実は、住まいも一緒なんです。
生活汚水、煙、熱など、今の住まいは人間が嫌いなものを全て屋外に放出して成り立っています。エアコンなどが良い例です。「高気密高断熱」という言葉を聞かれたかと思いますが、これなども自然環境から自分たちの生活環境をシェルターで隔離し、少ないエネルギーで快適な暮らしをしましょうというものです。このような観点から見ても、今の住まいは自然と対立関係にあるともいえるわけで、まるで自然を悪もののように捉え、年々距離をおくような重装備が施されています。
しかし、昔の家は違いました。
自然は人間や住まいの仲間であり、住宅から出る廃棄物は土の中に還されるか、肥料として生産に役立てられました。
このような自然を尊重する住まい方が、日本の暮らしを支えてきたのでしょう。

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また私たちの周りは、日ごと便利になりモノが溢れています。捨てるものも多く、まさに使い捨ての時代。コンピューターが出回るきっかけは「これで紙が要らなくなる」ということだったにも拘わらず、実際は以前より多くの紙を使っています。
こういった状況は全てのものに共通し、もはやそこから抜け出せないでいるのは、現代の思想自体が私たちの生活に適合しなくなっている証だと訴える人もいるほどです。
また最近は、大量生産から少量多品種化が進んでいます。
セイコーなど何と二千種類もの時計が出回っているそうです。それぞれの人が自分の好みを選択することが出来る”感性”の時代と言われる所以でしょう。
しかし私たちを取りまくライフスタイルは、セイコーに比べそれほど多様化していないのも実状です。多様化というと耳障りがいいですが、今日こうしてここにお集まりいただいている方の周りでも、さほど自分と生活が変わっている人がいるとは思わないでしょう。
どのようなデザインを選ぶかということは、ある意味趣味の世界に留まっていて、日常とは直接かかわっていないという証です。趣味の選択が日常生活を大きく規定することにはなっていないんですね。
バブル崩壊後のことですが、ある外国企業が日本の住宅を100件サンプリング調査しました。その中で彼らが見たのは、狭い中にも生活財をどっさり抱え込み、人形や土産品など極めて多種多様に飾り付けている姿でした。飾り物はどれも趣味が一貫しているとは思えず、そればかりか多くの家庭において、そういった状況が驚くほど似ているという結果だったのです。
日本の生活状況は、社会全体として変わっていないんだという、アンケートの結果だと思います。

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その外国人からは「ウサギ小屋」に喩えられる我が国の住まいですが、その問題は未だ解決しているとはいえません。日本も今では世界有数の経済大国ですが、こと住まいに関しては土地問題とも絡み好転していません。
また生活は、生産と消費の循環と捉えられてきました。生み出したものが生活に取り入れられ豊かになる。明日はもっと新しいものを生みだし、暮らしに取り入れてと、そうして私たちはいつの間にか消費者と呼ばれるようになりました。
この消費の中には、明日の労働に備えての活力や英気を養うという意味も含まれますが、それが充分に満たされて、はじめて人は趣味的な世界へと向かうことができる。
娯楽や教養、芸術や宗教といった生産とは直接関わらない、人間らしい営みに向かうことができるのは、生活が安定しなければ無理なことです。
経済大国といわれるようになった日本も、もうそれくらいのことが出来る余裕がなければと思いながらも、実際にはまだそうなっていない。生活時間や生活空間など以前と全く変わってない。むしろ時間など削られるばかりで、社員にひと月のバカンスを与える会社など、日本には存在しないといったら端的にお分かり頂けると思います。
感性の時代だとか少量多品種主義だとか、これはあくまでも生産側からの受けのいい言葉であって、以前変わり映えのないライフスタイルから、私たちは抜け出せていない現状を、いま一度認識する必要があるのではと思います。
つづく
次回は引き続き、高度成長期のLDKスタイルと住宅事情をレポートします。
  (かりの)