和家具の仕事(3)

「和家具」という言葉は、北尾春道著 『和家具』 彰国社刊で知った。
当時は家具というものも漠然と捉えていたし、西洋と区別する意味かと大雑把に考えてもいた。どちらかというと椅子とかテーブルといった洋式の家具が身近に溢れる現代に対して、日本の古いもの程に捉えていた。
家具を作るようになってふと思い出し、爾来この言葉を使わせていただいている。

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日本家屋には、濃い色彩がない。
それは単に色使いだけでなく、空間としての色づけをしないことが特色である。
部屋は一面に畳が敷かれ、襖や障子で仕切られる。開け放すことも、小さく個室として使うことも自在であるが、部屋に特定した使い方を強いることは少ない。
それに対して西洋から入ったLDKは、各室の個別な使い方を基にしている。
キッチンはとにかくとしても、ダイニングにはテーブルが置かれ、リビングにはソファーが置かれる。食事をとる部屋はダイニング、くつろぐ部屋はリビングと、あらかじめ特定の役割が空間に課せられている。過ごす目的に併せて人が空間を移動するのである。
そこに置かれるものが、家具と呼ばれるものであり、これらは簡単に持ち運びが出来るものでなく、常にそこに置かれ、空間の役割を補う。
それに対して、日本家屋では家具を置き放しにすることは滅多にない。
卓袱台を出せば食卓に、布団を敷けば寝室に、座布団を出せば客間にと、時々の目的に併せ空間を使う。置き放しにしては空間の融通性に支障が出るのだ。
従って、ここに出てくる卓袱台や布団は家具ではない。
これが「道具」と呼ばれるものであり、日本は道具を以て空間を目的化してきた。
誤解を恐れずにいえば、西洋では十の目的を達するのに十の部屋をもってするのに対し、日本ではひとつの部屋に十の道具をもって応えてきた。家具という概念は日本になく、専ら道具の文化だといえるだろう。
ただ道具というと、茶道具のような小さなものを想像する人も多いだろうと思い、行灯や衝立のような家屋を彩る道具たちを「和家具」と呼んで、区別することにしている。

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                   (木村 巌さん)
先般紹介した村山組の職人に、木村製作所の木村巌さんがいる。
錺り職人である。
鉄を使って作るものは、全て彼の手を煩わせている。
まだ若い職人だが、作るセンスは抜群である。
最後まで、五十鈴茶屋の店に置く行灯が決まらなかった。
照度を心配してのことではないが、暖かさを出すためにも大きな行灯を据えたいと思った。存在感があって、和洋に囚われないものをと考えていたが、時ばかりが過ぎて一向に形が決まらない。
製作の締切も過ぎた時、福岡空港での待ち時間に思いつき、その場でスケッチを描いた。すぐに製作に回さねばと、急遽一目散に現場に向かった。
村山さんが来ている時で何とかお願いし、すぐに試作が見たいとも付け加えた。
他の仕事も重なり、すぐには無理だと言われたように記憶するが、時間がない、明日行こうとなって無理矢理村山さんに連絡を取ってもらった。
電話したのが土曜日の午後3時頃、明朝9時には岐阜の木村製作所にいた。

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                  (五十鈴茶屋行灯)
急でもあり、会ってからスケッチを説明し、その場で形を決めようと思っていた。
ところが既に試作が工場の中央に作られ、私たちの到着を待っていた。
思わず驚きの声を上げた。
どうも電話の後、他の仕事を放り出して作ってくれたらしい。
図面を書けなかったばかりにスケッチと径寸法、高さを指示しただけだったが、木村さんの読解力には舌を巻く。思った通りの形がそこにあった。
お父さんも生粋の職人と聞くが、そのお父さんがひと言、
「いい形ですな、こんな形を作らせてもらうんは初めてですわ」
と、笑顔で迎えてくれた。
五角形の形をふっくらとさせ、高さを取って光源を大きくする。
細部の脚の形や台座の角度などを指示し、満足感で木村製作所を後にした。
土曜日の電話で、村山さんと木村さんの間でどのような話をしたのかは分からない。しかし、こういうのを阿吽の呼吸とすれば、村山千利は恐るべき人である。
見透かされているのだろうか、存外気持ち悪いものでもない。
  (前田)