民家と木の建築

私の仕事を評して、民家だという人がいる。
露わになった小屋組に丸太が組み上げられる。これが民家だという根拠らしい。
かつての民家建築に、丸太が縦横に組まれている姿を重ねていうのだろう。
建築の人でもそう思っている人が少なくない。

画像

民家という定義を問うわけではないが、民家をウリにする建物がある。
民芸もそうだが、発端の思想信条とは別に、聞く人の多くは郷土色強い土産品を思うだろう。今どきに作られるそれらの建築も同様で、造形まで高められた姿を目にすること極めて少ない。
架構を見せることで木の建築だと誇り、丸太の梁に空間を委ねる程の民家もどきでは、あまりにも表現が貧しい。
木の建築に対する、この辺りの誤解が相当あるように思う。
いまに残る古き良き「木の建築」は、構造自体の造形がしっかりしていた。
必然性を持った架構と、建物意図を叶えんがための木組みが、建築のバランスを見事に作り上げてきた。軒高と軒の出、平面と小屋組、架構と細部の造作、建築のあるべき姿がしっかり構成されていた。
それは作ろうとする建築に対し、相当な神経を行き届かせねばできるものではなく、単に木の架構を表して、民家だなどと吹聴する姿勢とは雲泥の差がある。

画像

建築に使われる木は、育つのに相当な歳月を必要とする。
到底私たちの寿命などと比ぶべくもない。その木を使って作る建築だからこそ、木に対して恥ずかしくない造形で再び生かすことが、人としての役割だと思う。
その根底には、永く生きた木に対する敬虔な気持ちがなければなるまい。
木の建築を見直す動きが盛んにいわれる現在にあって、民家もどきが横行しているようでは大いに心細い。
建築自体の造形に神経が行き届かぬうちは、単に木を使った建築でしかない。
形を弄ぶ建築がまかり通る時代にあって、今一度、問い直されるべきだと思う。
日頃の自戒を込めていうのである。
                (写真 五十鈴塾左王舎)
  (前田)