露地と蹲踞(茶の湯サロン3,)

腰掛け廻りを見る。
亭主は席中の用意が調うと客を出迎え、ここで初めて主客は顔を合わせる。
が言葉は交わさない。互いに黙礼を交わすのみである。
これを「迎え付け(むかえつけ)」と呼ぶ。
亭主の黙礼は、「これよりどうぞお入り下さい」というもので、客はこれを受けて茶室へと向かう。この茶室までの間が、「露地(ろじ)」と呼ばれるものである。

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茶の湯では、露地は極めて大切なものと説かれている。
”浮き世の塵を払う”といわれ、露地を歩くことで世塵の汚れをそそぎ、茶の湯の世界へと向かう清廉な気持を高める役割がある。
その露地の中で最も大切な所作が、手水を使う行為である。
亭主は迎え付けの直前に自身手桶に水を運び、「蹲踞(つくばい)」に注ぎ入れる。いかにも勢いよく、溢れんばかりに注ぐ。
客に対する、この日初めての所作となる。
「寒中にはその寒を厭わず酌み運び、暑気には清涼を催し、いずれも客に対するもてなしの心である」、と利休は説く。亭主がわざわざ運んでくれた水で客は手水を使う。水を通して主客の心が触れ合う一瞬である。
この大事な蹲踞に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が手に入ることになった。
左座さんが築いた縁のたまものである。
鎌倉末期から室町にかけての一品という。
京都の庭師 比地黒さんの手蔓で、見事この空間に納めることができた。
亭主自ら運び入れた水を、客はこの蹲踞で使い、茶室へと向かう。
その歩々に清風を起し、伝い歩む道程が茶の湯の心持ちを醸成する。
ここを庭と呼ばずに、「露地」と呼ぶのは、そのためであろう。
茶の湯にとって大事な時間であり、空間なのだ。

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この上がり框から階段にかけてが、常楽苑の露地になる。
庭に作られるものとは自ずから異なるが、それを見立てるのである。
このような場所であっても、茶の湯に用い得るよう整えることで、立派な茶の湯の場となる。空間の大小や場所の内外ではない。
その上で、全体を包むありようが茶の心持ちに沿い、叶うようなものであれば、どのようなところでも成り立つ可能性がある。
左座さんは、ここをどのように使った「茶の湯」をするのだろう。
通例の露地の規矩とは異なる。
それを存分に使いこなし、独自の茶の湯を展開されるであろうと確信している。
それはきっと、彼の心に触れることになるに違いない。
主客が触れ合う、まさにここは「露地」なのである。
  (前田)