途中経過を紹介してきた三沢の数寄屋の竣工写真が上がってきた。写真を整理していると、これまでの道のりが思い返され、つい見入ってしまう。これから少しずつ紹介したい。
初めて施主とお会いしたのは6年以上前で、私の設計で八戸に作った住宅の完成見学会でのことだった。立ち話し程度に計画の主旨を聞き、私の設計したほかの建築も見たいと、東京まで出向いてくれた経緯がある。その後、正式に依頼を受け、二世帯住宅として数寄屋建築を強く望まれた。あまり大きくしない方が、とのアドバイスも束の間、代々の名家は集まる人も多く、次第に規模も膨らんでいった。
敷地は当時、耕作地として畑になっていて、周囲はまばらに民家が点在する閑静な場所だった。所有する土地は大きいものの、建築として土地に起因する要素も見当たらず、この家の環境から構築する必要があった。そのため、建築はもとより庭も任されることになったが、拠りどころとなる根拠を見つけられずにいた。農地転用から開発行為と、宅地に転換するまで時を要したが、その間で設計を煮詰め、主たる木材を原木で調達するには有効だった。
三沢は本州北端にあって多雪地域でもある。初めて冬に行った雪の多さに圧倒され、この地域で数寄屋を作ることの困難さを思い知らされた。それでも施主の意向は固く、ならばどう対処するかを探り、かつて金沢の兼六園で作った経験のもと実施設計に取り掛かった。500㎡を超えるため、構造を福岡の川崎構造設計に依頼した。架構については私の提案でほぼ計算に載ったが、屋根の軒については意見が分かれた。三沢は多雪地域に加えて雪がとても重い。軒を深く差し出し、軒先を薄く納めねば意匠にならないと迫ったが、構造からの回答はとても納得できない。たびたび意見を闘わせ、漸くこれならという解決策を見出して工事が始まった。
施工は、この25年付き合ってきた大山建工が担い、原木集めから木取りを先行して始めてもらった。各所の原寸を加工場全体にべニアを敷いて書き出し、各所の屋根の納まりや、屋根の起り(むくり)からくる軒先調整、各桁や梁の高さと、その組み方など子細に検討を重ねた。構造からの要求と意匠との整合性を箇所ごとに確認し、最後に破風の原寸を引くまで相当を費やした。結果、実施設計寸法と大差なく納まり、墨付けから手刻みの加工へと進んだ。
大きな建物は、大工の墨ひとつの差で誤差が出てくる恐れがある。しかしそれも杞憂に終わり、建て方が順調に進んだことは幸いだった。屋根仕舞、外壁仕舞を経て内部の造作へと向かったが、その頃から庭を作り出さねばならない。庭の施工は鈴木造園が手を上げてくれ、使う樹木と庭石を、先だって現場隣に設けた土場に搬入してもらった。それを幾日も現場に通って頭に叩き込み、その上で構想を固め、1昨年の春から庭の仕事と同時並行して監理を行ってきた。
庭屋一如という言葉がある。庭と建築がひとつになることで得難い環境になるという趣旨だが、この言葉が好きで、時々に反芻しながら取り組んできた。果たしてその成果があったかどうか、表門から歩く苑路に沿って紹介していこう。
<つづく>
(前田)
追、HPのworksに追加しましたので、併せてご覧ください。