前回の出張中、帯状疱疹にかかってしまった。
数日前から痛みがあり、気づけば背から腹まで紅く大きな疱疹が広がっていた。
刺すような痛みが暫く続き、とても仕事どころではない。
と、2~3日怠けて漸く仕事に復帰した。
<親通切子格子>
建具を纏めるため、格子から書き出した。
これまで何遍も書いているものの、格子はいつも難しい。
全体のバランスもそうだが、姿にリズム感みたいなものが現れないと、格子にはならない。昔のものの中には、それが見事に表現されていているものもあって、コツを掴みたいと思いながらも果たせないでいる。
かつて格子は、その家の職業を表していた。
糸屋格子、麩屋格子、酒屋格子、米屋格子、廓(くるわ)格子、染屋格子、炭屋格子など、家業からくる使い勝手からそのデザインは生まれた。繊細な糸屋格子、俵をぶつけてもびくともしない米屋格子、粋な風情の廓格子など、その商いが誇りを持ってファサードに溢れていた。
また大小の太さを巧みに混ぜ合わせ、吹寄せにしたり上部を開放したりと、格子は建物とは別に自由に造形を羽ばたかせてきた。これが街並みに、音色さながらリズムを与えているのだろう。
私がいた頃の京都は、まだ町家も数多く残っていて、それらの格子が日常の中に溶け込んでいた。町家を巡る楽しさは、格子を見る楽しさにあるといって良い。
<平格子の例>
道路に近接して建つ町屋にとって、格子は欠かせぬものであった。
当然視線を遮らねば、家中が丸見えになってしまう。その中にあって、視線を通し風を流したりと、狭い町中に住む知恵が格子を育ててきた。
その隙間は、外からは覗けぬが、中から外は存外よく見える。家中に比べ外が明るいこともあるが、友人宅でそれを目の当たりにしたときは新鮮で、今もその光景を覚えている。
また格子を作ってみて思うのは、見込みの寸法が大切だということである。
とかくこうしたものは、見付(正面寸法)の大きさばかりを気に留めがちだが、人がモノを認識するのは立体であって、格子といえどもその例外ではない。軽々としたリズムや、鈍重な質感なども、この見込みが及ぼす影響が大きいのではないか。このあたりも格子の難しさだろう。
また格子は、アキ寸法(格子間のアキ)が格子を堂々と見せるもので、これは桟の太さとの兼ね合いにもよるが、この呼吸を会得せねば、思う格子は作れない。
<五十鈴茶屋の格子>
京都にいるとき、自転車で回って方々を採寸したノートが手元にある。これ通りに引用するわけではないが、今も寸法の拠りどころにしている。
この格子で、多彩な表情を自在に表せたら、どれほど楽しいことだろう。
先人たちが残した形に触れながら、なぞりながら考えている。
(前田)