ぎっくり腰をしてから早やひと月。
漸く楽になってきたものの、まだ屈む怖さが離れない。
その中、先日ひと月ぶりに石巻に行ってきた。
最後の大詰めである。
<流れから土橋を見る>
新たに加えた300坪の庭園を既存の庭に繋げ、全体でどのような庭にするか、大きな課題を受けてから一年半が経つ。この間、東北震災があって、現場も津波に呑まれ、建物は床上浸水、庭は塩害で多くの植裁がやられてしまった。その復旧にかなり時間が掛かり、思うように仕事が捗らなかった。
新たに加わる庭は、流れを主体に、どこを歩いても水音が聞こえるような、常に傍らの水に触れる庭にしたいと思った。
5月中に流れの大筋が完成し、先月初旬に試験的に流しながら微調整をしようと思っていたところ、私の容態でひと月遅れてしまった。
流れの総延長80m、これほど長い流れは経験ないが、その中にさまざまな景色を点在させ、歩みに従って次々に展開するさまを想像しながら作るのは、難しいものの楽しみでもあった。施主の理解もあって、庭の材料を選びながら考えることが出来たのが幸いだった。
流れといっても一律ではなく、狭いところもあれば、6尺豊かな広幅もある。
現在は流れも下地の段階だが、どの場所においても水が片寄ることなく、満遍なく川幅に水を行き渡らせて流していくのは、とても神経を使う仕事だった。
また、護岸の石を極力見えないよう、水面近くに高さを設定し、そこに植裁を加えながら流れの景色を作っていく仕事も、思ったより緻密な作業が要求された。
「石は埋めなさい、埋めた大きさが、現れたその表情に出る」
これは石を据える際の鉄則だが、このたびの護岸でも大いにそれを実感した。
上流に作った池は、かなり大きな石で護岸を組んだ。それも切り立つような石ではなく、天端が平らな、あまり主張しない石を、肌合いを大切に組んでもらった。
水を張る以前は石が大きく映り、仕上がりが不安だったが、水を湛えるとそれらが水底に消え、現れた上部の石肌がとても力強く映る。大げさかも知れないが、これかと納得した。
<上流に作った池>
今年の初め、友人の一周忌に行った相国寺の和尚の好意で、金閣の正面を回る池を一周させてもらった。その護岸がまさにこういった風情で、静かな表現に徹していた。歩いていくと、それが不思議と訴えてくる感じがある。それは人と水を隔てるものがない心地よさみたいなもので、水とひとつになった感じがした。
それは、無隣庵庭園に見るような流れとも重なるもので、大いに啓発を受けた。
これから最後の仕上げに入り、近々完成となるだろう。
広間の茶室には表千家家元、千宗左宗匠から芳春軒の揮毫を頂いた。
長い石巻通いだったが、もうすぐ終わるかと思うと、名残は尽きない。
完成時には改めて紹介したい。
(前田)