那珂川に面して嵯峨野の庭が展開する。
以前の石組みの庭とは趣きをかえ、優しく穏やかにと心がけて作った。
塀を設けて対岸の景色を消し、塀下を解放することで川面を際だたせた。
湾に注ぐゆったりした流れだが、波の動きが座敷にいて伝わってくる。
<高雄 座敷から主庭を望む>
この庭に面して嵯峨野の主座敷が連なる。
これは高雄という座敷で、矩手に畳廊下を巡らせ、次の間がつく。
昨今、脚の悪い人が多いため、座卓下を掘って足を入れられるようにした。
座敷の長手に床を設けて琵琶台をおき、床脇を地袋として纏めた。柱は杉柾の角柱、長押を打って格調を整えている。材は面を大きくとってなだめてはいるが、きりっとした力強さを見せたいと思った。
床柱には吉野杉の四方柾をたて、面をなぐることで他との違いを鮮明にしている。
木づくりは棟梁中里政義がやるのかと見ていたが、彼は彼が信任する若い大工細越克典に任せた。できた仕事は明らかに中里の手ではなかったが、彼なりに伝える潮時を感じてのことなのだろう。
前夜も宿舎で手ほどきを受け、寝る間を惜しんで繰り返し予行するも、いざ材料に向かうと怖じ気づくのか、なぐる勢いに欠けていた。
しかし仕事はこうして伝承され、小さな仕事の積み重ねに技術が蓄積されていくことを思うと、まずは及第かと皆で大笑した。
<高雄 床構えから次の間を望む>
長押には釘隠を打った。
以前紹介した村山組の仕事で、ひとつずつ木を彫り出し箔押しで仕上げている。これまで数回見本で作り直したが、見せてもらうたび仕事に力が漲っていく。高山の金子金造氏の手になるもので、けして妥協を感じさせない意志の強さが現れていた。
釘隠は完成間際、棟梁自ら長押に打ってまわっていた。仕事に目を入れる気持ちなのだろう、ひとつずつ真剣に取付けてた姿が印象に残る。
次の間境の欄間は、截金師(きりかねし)左座朋子の製作による。
先日伝統工芸展で新人賞を受賞し、これからの活躍が待たれる若手である。これまで数回仕事を一緒にしたが、今回はデザイン画のときから殻が脱げたと印象を持った。鳳凰が翼を広げた姿を截金の繊細さで描いてくれたが、力強さと優美さに圧倒された。
<嵯峨 座敷を望む>
これは嵯峨の座敷で、高雄を男性的とすれば、嵯峨は女性的といったらいいだろうか。優しく穏やかな姿をねらった。
柱は同じく杉柾の角柱だが、長押に丸太を用いたのをはじめ、床柱、床框も全て丸太を使って纏めている。床柱は絞りの入った杉磨き丸太で、床框は磨き丸太を思い切りよく斫って(はつって)みた。框の漆は若女将の選定だが、床脇の台面との映りもよく、まこと女性らしい華やかな取り合わせとなった。
以前にも書いたが、この長押には泣かされた。
しかしこうしてみると、実に加減の良い丸みが取れたと納得している。長押は空間に与える影響が大きく、がらっと雰囲気を変えてしまう力がある。
これは地元福岡の大工が取り付けてくれた。
丸太を使うと、部屋隅の仕口は留めに切っては納まらない。1本ずつ異なる丸太の丸みに合わせてひかりつけ、それを順次差し回して取り付けていく。
小口部分を埋木で納めるなど、角ものと違った複雑な仕事がある。
棟梁不在にこの仕事が重なったが、細越君が棟梁に成り代わって大工を指図し、私の思いを伝え納めてくれた。
<嵯峨 床構えから次の間を望む>
また天井には紆余曲折があって、これは当初書いた意匠ではない。
丸太類を集めてもらった地元九銘協の峰社長が秘蔵の板で、ぜひ使ってほしいと懇請された。板としては申し分ないが、良い板ほど主張が強く、馴染ませるのに他を犠牲にしてはと躊躇していた。
再三話があって、在庫の枚数を検討するかと書き出したところ、広間群の大きさに寸分違わず納まった。これも何かの縁かと受け入れることとし、材寸を生かしてこのような意匠とした。
1枚の幅が2尺、長さ3間弱の吉野杉の中杢板で、赤身に揃った杢目が美しい。
他材との取り合わせを心配したが、ねらった形に納まったようだ。
これらの座敷は繋げて使うこともできる。
竣工前、携わった職人衆を女将若女将がこの座敷を繋げてもてなしてくれた。仕事の思い出尽きず、最後は車座になって酌み交わし、互いが互いを称えていた。
こうした異なる意匠の座敷だが、繋いでも違和感を感じなかった。
これも、天井の意匠をひとつに纏められたせいかも知れない。
なお広間群の襖の引手は、博多人形師中村信喬先生が筆を執ってくれた。
(前田)