棟梁 大山重則

木の家T邸の続きを。
工事は、地元八戸の大山建工が請け負った。
私の設計した八戸の家や、仙台Y邸の施工でも活躍してくれたところだ。
木の建築のスペシャリストである。

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                  <左端が大山棟梁>
社長である大山さんとは、長いお付き合いになる。
私が京都での修行時分、師である中村昌生先生とは既に親交を結ばれていた。
初の対面は、京都を案内したときだったと思う。京都の良いところを自らの仕事に活かそうと、社員の大工、下請けの左官、板金、建具職らを連れ、数寄屋を中心に見学に訪れていた。
先生の命で案内を承ったが、当時から眼光鋭く、その眼差しは際立っていた。
中村先生と大山さんの親交には、大山さんらしいエピソードがある。
私の知り合う以前、初めて中村先生の設計で、八戸に茶室を作られたときだ。
もちろん、大山さんが請け負った。
しかし、部材の名称や各所の納めなど、通常の木の建築とあまりに勝手が違う。
分からない、悩み出せば仕事は止まる。どう聞けばいいのだろうか。
そこで図面を読み解けないと見るや、すぐに汽車に乗って、京都まで中村先生を訪ねた。今のように交通機関が発達していない頃である。
前晩の夜行に飛び乗り、翌朝東京からの新幹線に乗り換え、京都へ向かう。
当時、京都工芸繊維大学の教授だった先生の講義が終わるのを待ち構え、急ぎ打ち合わせを請う。茶室の第一人者から聞く珠玉の言葉は、きっと大山さんの胸を大きく叩いたに違いない。
場所を移して先生から労いを受け、最終の新幹線で帰途へ着く。
打ち合わせ中の不明な言葉を、帰路八重洲ブックセンターに専門書を尋ね、青森行きの夜行に乗って、朝一番の仕事に向かったと聞く。
その強行軍は、建物完成まで幾度となく行われた。
この熱意と行動力は、中村先生と大山さんを、大きな絆で結びつけたことだろう。
とても私如きに、その深さは計り知れない。

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                   <T邸 梁丸太 赤松材>
仙台Y邸での、秋田杉を揃えるために自ら奔走してくれた熱意や、八戸の家で、手持ちの材を惜しげもなく使ってもらった心情が、どれだけ建物に息吹を与えたことだろうか。
まさに棟梁として、大山さんの責任感と情熱が成せる技だと思う。
今回のT邸でも、大山さんの尽力で良材が揃った。
大山建工の大棟梁として、今も並み居る職人らを束ね、膝下には優れた人材が育つ。
  (前田)