いま住宅が、3軒同時に進行している。
うち2軒は基本設計中、1軒がいよいよ工事に取り掛かろうとしている。
八戸のT邸である。
若い施主家族が住む、木の家である。
私が関わった”八戸の家”を観て、ご依頼いただいたと聞く。
建築過程を含めて、紹介していきたいと考えている。
(八戸の家)
まだ20代の家族にとって、戸建ての住まいは高嶺の花、といっていいだろう。
しかし例外を除いて、その頃から”住まう”ことへの執着を持つ人も少ない。
また、即金で求められるほどのものは別として、ローンを組まねばならない買い物は、歳を取ってからでは難しく、依って住宅を求め、求められる年齢は自ずと知れることになる。
30代から40代に掛けての、いわば時代を背負う人たちに希求が大きい。
それら若い世代にとって、木の家は果たして身近なものなのだろうか、との疑問はいつも感じていた。
正直、全てを本物の木で作ろうとすれば、お金も掛かる。
また”木”が持つある種の土着性や、艶めかしさ。時とともに変えていく表情。手を掛け、愛情を持って接する必要性など、木の住まいは住む人が積極的に関わることを求める。
まさに、現代の感覚と逆行することばかりである。
誰かが書いていたが、日本版ウオッシュレットなど、世界のどこにもないらしい。
水が出るかとおもえば温風が出たり、ターボや香り、メロディー機能までもと、ある種のおもちゃ的気配りが、現代の日本を表している、といった内容だった。
住設メーカーの標榜する次代の住まいも、人がいるところを察知して灯りがついたり、リモコンで家中の環境を制御したりと、もっぱら人に対してのサービス精神に溢れている。
果たして、いつから住まいは、設備中心になったのだろうか。
快適さや居住性は、間取りや空間から生まれるもので、機能はそれをサポートするものと思ってきた。しかし機能という数値がなければ、快適性も理解できないほどに、我々は感覚麻痺に陥っている。
機械の手助けなしには、快適さも感じられないのだ。
まさに、住まいのウオッシュレット化である。
この現代にあって、T邸の施主は20代である。
木の家を建てたい、といってくれた彼に、どのような木の家を提供できるのか。
日頃の疑問に対する、具体的な回答を果たさねばならない。
若い人への”木の家”とは-、この仕事を通じてレポートしようと思う。
機能だけで語れない空間だからこそ、住まいとしての真実が生まれる。
住まいも、真理の探究である。
(前田)